2つのTV番組を見て

――“たけしのTVタックル”と“ここが変だよ日本人”

ニューズレター第18号

1.たけしのTVタックル

ついついTV局の作戦にはまって

何カ月かに一度の、“たけしのTVタックル”を楽しみに見ています。この番組は、霊魂・超能力・宇宙人・予言といったテーマを中心として、「肯定派」と「否定派」が激しい論戦をするというものです。霊魂や超能力をめぐってのバトルが行われるとなれば、スピリチュアリストとしては見逃すことはできません。たけしのTVタックルは、今世の中で話題になっているテーマを取り上げ意見を闘わせる番組で毎週放映されていますが、霊魂や超能力についてのバトルは数カ月に一度です。)

まず最初に、証拠ビデオ(?)が流され、それに否定派が反対意見を述べるという形でバトルの火ぶたが切って落とされます。次に、その意見に対して肯定派が猛烈に反論します。こうして論争が続いていきます。否定派の代表は、早大教授の「大槻おおつき義彦氏」とタレントの「松尾貴史さん」です。肯定派の代表は、元たま出版編集長の「韮澤にらさわ潤一郎氏」と超能力研究家の「秋山眞人まこと氏」です。これらの人達がレギュラーメンバーとして毎回参加します。

この番組の製作者であるTV局にとっては、何より高い視聴率を上げることが目的です。肯定派・否定派のどちらが勝ってもいいのであって、視聴者が喜ぶような激しいエキサイティングなバトルをいかに演出するかが問題なのです。したがって片方だけが優勢では困ります。見ている側が、ハラハラ・ドキドキするような白熱した番組になることが大切なのです。

大槻教授が、わけの分からないようなケチをつける(大槻は何と霊性が低いやつなんだ。見ているだけで腹が立つ)――肯定派が大槻教授に反論する(そうそう、そうなんだ。大槻教授、分かったか)――再び大槻教授の反論(教授は本当にいやらしいやつだ。死んだら間違いなく地獄行きだ!)

こうしてTVを見ている私達は、毎回TV局の思惑おもわくどおりにはめられていくことになります。番組を楽しみに待っている私などは、初めからTV局の作戦にまんまと乗せられていることになります。TV局にとっては、まさにもってこいの“カモ”なのです。そうとは知っていても悲しいかな、つい見てしまうのです。

“さらし者”にされる気の毒な超能力者達

この番組を見ていて心が痛むのが、スタジオで“さらし者”にされる超能力者達です。肯定派は、超能力存在の強力な証拠として、スタジオに超能力者を連れてきます。否定派の目の前で事実を見せつけ、鼻をへし折ってやろうとするのです。TV局側はスタジオでの実演に対してそれなりの公正を期す配慮をしており、真偽しんぎを見極めるための実験環境・実験条件としては問題ありません。

さて、スタジオで行われる実演を客観的に見ている限り、彼らの超能力は明らかに本物と言えます。どう見ても、インチキではありません。

ところが否定派は、言いがかりとしか思えないような理由を並べ立て、決してそれを認めようとしません。あげくの果てには無理難題と言うべき要求を、いきなり超能力者に突きつけるのです。そもそも「超能力」を認めない否定派の連中には、それが周囲の状況によって左右させられるデリケートなものであることが分かっていません。また「超能力者」といっても、人によってその能力には差があることを全く理解していないのです。彼らには、ただケチをつけて目の前の現象を否定しようとする考えしかありません。何が何でも、「インチキの可能性がある」と主張したいのです。

例えば「透視能力」の場合、被験者(超能力者)がこれまで行ったことがない場所について、そこにある建物の特徴や全体の風景をある程度まで正確に言い当てたとするなら、普通は、それだけで間違いなく「透視能力がある」と認められることになります。しかし否定派は、透視内容が100%実際と一致しなければ「インチキだ」と言うのです。まるで写真で撮ってきたように細部にわたるまで一致していない限り、決して事実とは認めようとしません。

そうした否定派の態度が間違っていることは、まともな判断力を持った人には一目瞭然です。インチキだと決めつける方が、よほど不自然で無理なことなのです。全く何の情報も与えられないところで70%も言い当てているのに「すべてうそだ」と言うのですから、あまりにもおかしな話です。一度も行ったことのない場所の様子を70%も当てたとするなら、「透視能力がある」と思うのが当たり前なのです。いずれにしてもこうした形で、スタジオに来た超能力者達に無理難題をふっかけて困らせるのです。

それを見ていると、19世紀末~20世紀初期の心霊研究時代に、心霊現象を否定する科学者達が霊能者に向けた非道で執拗な攻撃を思い出します。もっとも否定派の連中の、品性の劣る言動がなければTVの視聴率は稼げませんから、それも仕方がないと言えるかも知れません。また出演した超能力者達も、それなりのギャラをもらっていることでしょうから、不当な言いがかりも甘んじて耐えなければならないのかも知れません。

実験に取り組む超能力者達は皆、真剣そのものです。それに対してスタジオの雰囲気はまるで遊び感覚で、超能力者が精神統一をしている脇で、ふざけたり、からかったり、ジョークを言って笑い合っています。こうしたTV局側や番組の司会者(たけし)達の、無神経さ・配慮のなさに腹が立ちます。どうしてもっと静かで精神統一しやすい雰囲気をつくってあげないのかと、抗議したくなります。ひどい環境の中で――「さあ、お前の能力を見せろ」では、参加した超能力者に失礼です。これでは実演に失敗したとしても仕方ありません。こんな見世物のような番組に出なければよかったのにと、つい同情してしまいます。

印象に残った決定打!

とは言っても、参加した超能力者が毎回、実演に失敗したということではありません。いつも否定派に、やり込められていたわけではありません。否定派は、何を見せつけられても難癖をつけることしかしませんが、時には否定派も、否応なく現象の真実性を認めざるを得ないようなこともありました。否定派が、無理やり(あら探しをしてインチキの口実を見つけ出そうとしても、どうしてもできなかったケースがあったのです。

その一つが、長野県の男性(綾小路鶴太郎氏)による「スプーン曲げ」の実演でした(2000年10月2日放映)。男性は、大槻教授の目の前30cmのところで、何度も複雑なスプーン曲げをして見せたのです。同席したマジシャン(ナポレオンズ)も、トリックでないことを認めました。さすがの大槻教授も、目の前に突きつけられた現実に反論することができず、それが事実であることを認めました。そして否定派の連中が、こぞって拍手を送るというクライマックスで番組は時間切れになりました。

TVを見ていた視聴者にとっては、「さあ、これからが見ものだ」と思っていた矢先に、番組が終わってしまったのですから、これには大変な不満が残ったはずです。大槻教授はかねがね――「自分の目の前で超能力を見せたら、いつでも大学に辞表を提出する」と公言していましたから、本当はこの時、彼は大学を辞めなければならない状況に立たされていたのです。

私を含め大半の視聴者達は、次回の番組での展開を楽しみにして、ひとまずTV局の思わせ振りな演出を我慢することにしました。次回のバトルでは、この「スプーン曲げ」の事実を取り上げて、肯定派が攻勢に転じるようになるだろうと期待することにしました。ところが何カ月か後に行われたバトルでは、肯定派からこの問題が持ち出されることはありませんでした。肯定派の無能さか、またはTV局側からストップの要請があったためなのかは分かりませんが、せっかくのバトルの進展が見られず、番組はうやむやのままで終わってしまったのです。

この綾小路氏は、2001年12月31日に別の番組に出演し、たけし達の前で再び見事なスプーン曲げを披露しています。最近になってミスター・マリックなどのマジシャンがスプーン曲げに挑戦していることを意識し、その番組では、自分のスプーン曲げが決してトリックではないこと、マリックとは格違いのものであることを証明して見せました。

さらに印象的だったのは、12歳のロシアの少女によるスタジオでの「透視実験」でした(2002年4月1日放映)。この少女に、大槻教授の書いた専門家にしか理解できないような物理式を透視させることになりました。少女がアルファベットに馴染なじみがあることなどが幸いして、完璧とは言えないまでも、誰が見ても透視が事実であることを認めざるを得ないような素晴らしい結果が出ました。

これにはさすがの大槻教授も脱帽して、たけしの、「これでは辞表とまではいかなくても、休職だね」の声に、教授は――「4月から講義をしません」と宣言することになりました。果たしてその通り実行したのでしょうか? もし教授が、これまで公言していたとおり本当に辞表を出したとしたら立派なものですが……

この他にも、印象的だった実演がありました。実演時期は先の2つよりかなり以前になりますが、中国の2人の女性が、スタジオで「透視実験」に臨みました。否定派の「野坂昭如あきゆき氏」の書いた文字を透視するというものでした。その結果、野坂氏は彼女達の能力の正当性を認め、否定派の仲間の2人(大槻・松尾氏)と意見が対立するというおかしなことになりました。

ここに挙げた以外にも、印象に残った実演は数多くあります。そのいずれもが、頑固な否定派を前にして「超能力の事実」を見せつけるのに十分なものでした。それによってTVを見ていた大勢の人々に超能力の実在を知らせることになったのは、大きな意義がありました。

スピリチュアリズムは、どちらの味方か?

ここで少し視点を変え、この番組を、スピリチュアリズムの立場から見ていくことにしましょう。スピリチュアリズムにおいては、霊魂や超能力の存在を頭ごなしに否定する大槻教授は悪玉の代表のように思われています。彼には悪玉の親分のイメージが定着しています。

しかし、この番組に関する限り、彼をいちがいに悪玉と決めつけることはできません。一般的には、スピリチュアリズムは当然、肯定派の味方であると思われるでしょうが、そうではありません。この番組に参加している肯定派の連中は、およそスピリチュアリズムからは懸け離れた、むしろ敵・反対者と言った方がいいような人達ばかりです。

この番組で取り上げられているテーマは――「心霊関係(霊魂と超能力)」「宇宙人」「予言」の3つに分けられます。この3つのテーマのうち、スピリチュアリズムでは霊魂と超能力の存在は認めますが、宇宙人と予言は認めません。「そんなことはない。スピリチュアリストの中には宇宙人の存在や予言を認める人もいる」と思われる方がいるかも知れませんが、それは、スピリチュアリズムを正しく理解していないところからの見解なのです。シャーリー・マクレーンに代表される軽々しいニューエイジャー達は、宇宙人や予言のたぐいを信じますが、スピリチュアリストはそうであってはなりません。

つまり番組で取り上げられている3つのテーマのうち2つについては、スピリチュアリズムは大槻教授と同じ立場・見解に立っているのです。「宇宙人」や「予言」についての大槻教授の非難は、スピリチュアリズムとしても大賛成なのです。

宇宙人と予言については、否定派に軍配!

宇宙人肯定派・予言肯定派のあまりの内容のひどさについては、TVを見ている大半の方々はご承知のはずです。1999年7月に関する“ノストラダムスの予言”が外れても、なおこじつけとしか言いようのない屁理屈を並べて、「やはり予言は、これから当たるのだ」と主張するについては馬鹿馬鹿しくて聞いていられません。また韮澤元編集長の、「宇宙人の住民票を持っているが、今は見せられない」との意見に至っては、最早まともな議論が成り立たないのは誰の目にも明らかです。狂信者が、自分達だけは正しいと思い込んでいるのと全く同じことなのです。番組も回を追うごとに、宇宙人肯定派・予言肯定派の程度の悪さだけが、浮き彫りにされるようになってきました。

こうした状況をTV局側が察知してか、正面きって肯定派と否定派を議論させる時間が少なくなってきています。宇宙人と予言についての議論を取り上げるウェイトが、以前と比べて軽くなっているのがよく分かります。「宇宙人」「予言」という2つのテーマについては、明らかに否定派の勝利と言えます。いくら興味本位の番組であっても、度を超したデタラメの主張を続ける人達を出演させていては、番組が成り立たなくなるのは当然です。

結果的に、真実なものと真実でないものに明白に色分けされるようになり、よかったと思います。肯定派は、「霊魂や超能力」といった心霊に関するテーマだけについて議論すれば、このような惨めなことにならずに済んだのです。

秋山眞人まこと氏の“致命傷”

肯定派のあまりにもひどい顔触れの中で、唯一まともな感覚と知性を持っていると思われるのが「秋山眞人氏」です。彼だけが常に、大槻教授とかみ合った議論をしています。その点において最も好感の持てる人物であり、スピリチュアリズムなど心霊問題の肯定派にとって、頼もしい存在と言えます。

しかし、この秋山氏は数年前に、「宇宙船に乗り込み、宇宙人と会った」というとんでもない内容の本を出版しています。スピリチュアリズムから見ればこれは明らかな間違いであり、彼の長所をすべて台なしにしてしまうほどの“致命傷”と言えます。否定派がこの弱点を突かなければいいのにと危惧きぐしていましたが、案の定、最新のバトルではそれが取り上げられてしまいました。彼は防戦一方に追い込まれ、「あれは夢である」といったみっともない言訳いいわけに終始していました。本当に馬鹿げたことを本にしてしまったものです。

「宇宙人との会見は、夢の中の出来事だった」などと言い逃れできる問題ではありません。この傷は、今後もずっとついて回ることになるでしょう。彼が優秀な人材で、スピリチュアリズムにとっても頼りがいのある人間だけに、実に残念なことと言わざるを得ません。韮澤元編集長の宇宙人の住民票と同様に、このバトルの中では、まさに致命傷となっています。

「大槻教授」は、スピリチュアリズムの敵か?

霊魂の存在や超能力をかたくなに否定し続ける「大槻教授」は、スピリチュアリズムの敵とも言える人物です。しかし見方を変えれば大槻教授は「宇宙人」や「予言」、あるいは「ニセ霊能者」というスピリチュアリズム内部の敵を叩いてくれる、ありがたい存在なのです。内部の敵は外部の敵よりもタチが悪くて厄介です。スピリチュアリズムを語りながら、その一方で宇宙人の存在を認めることは、大きな弊害をもたらします。そうした“内部の敵”を非難する大槻教授のような“外部の敵”は、まさにスピリチュアリズムにとっては、ありがたい人間と言えます。

スピリチュアリズムでは――「自分の良心に忠実に従う生き方が大切である」と教えています。大槻教授を見る限り、本当に心の底から「霊魂などない」と信じているようです。霊魂の存在を信じられないことは気の毒としか言いようがありませんが、彼が自分の良心に忠実に生きていることは、誰の目にも明らかです。霊的事実を全く認めることができないというのは、「霊性が低い」という単純な理由によるものです。大槻教授は霊性は低いけれど、低いなりに人生を誠実に生きていると言えるのです。

それに対して、スピリチュアリズムを自らの利益と名声のために悪用する「ニセ霊能者」はどうでしょうか。口先では霊魂や超能力の実在を主張します。しかし現実の生活では、霊的真理を悪用して、人々を騙し続けています。その罪は霊界において免れることはできませんし、必ず後悔の中で償わなければならなくなります。自分の良心に反する行為、悪いと知りつつ行ったことは、いつか咎めを受けなければなりません。こうした「ニセ霊能者」と、大槻教授のようなスピリチュアリズムを否定する「正直者」とでは、神はどちらを善しとされるでしょうか?

大槻教授は、霊魂や超能力などないと心の底から思っているのです。だから公然と、「それが事実なら辞表を出す」とまで言い切っているのです。心霊世界を否定することは霊的事実から見て明らかに間違っていますが、自分の信念に忠実であろうとすることにおいて、動機は純粋なのです。それゆえに死後、彼が霊的な責めを負うことはないと思われます。嘘と知りつつ自分の利益のために人々を騙し続けるニセ霊能者は、その動機が不純です。人間的価値において、大槻教授に大きく劣るのです。

スピリチュアリズムでは――「何を信じるのか、何を語るのかではなく、何をするのかが重要である」としています。スピリチュアリズムの霊的真理を語りながら罪を犯す人間は、残念ながら多いのです。こうしたスピリチュアリズムの“内部の敵”を叩いてくれる大槻教授は、間接的にスピリチュアリズムの味方とも言えるのです。

2.ここが変だよ日本人

TVで見せた「気の威力」

たけしのTVタックルと同様、印象的だったのは、“ここが変だよ日本人”での気功師による気の実演でした。この番組は、日本に滞在する外国人をスタジオに呼び、日本に対するさまざまな意見・批判を述べさせ、議論するというものです。この番組は今年の3月で打ち切りとなり、現在は放映していません。)

番組の中では数回にわたって気功の実演が行われ、ここにも否定派代表の大槻教授が出演しました。日本・韓国・中国から、名うての気の達人・気功師が次々とスタジオに招かれ、番組に参加していた外国人を実験台にして気功を実演し、「気の威力」をあますところなく見せてくれました。特に気の力による“遠当とおあて”の実演には目を見張るものがあり、スタジオにいた参加者は皆、唖然あぜんとしていました。遠当てとは、離れた所にいる人間を気の力で操るという気の技で、時には数十人の人間をいっせいに操ることもできます。)

否定しがたい事実を目の前にして、スタジオにいた者ばかりでなく、TVを見ていた多くの人々も、気の威力に驚いたはずです。それは「サイキック能力の存在」を、TVという現代のメディアによって国民に知らせたことであり、スピリチュアリズムにとっても実に意義のあることでした。20世紀初期の、「科学者による心霊現象の研究」に匹敵する意味を持っていると言えるかも知れません。当時は、一部の科学者だけが目にすることのできた「超能力現象」が、TVを通じて多くの国民の前に示されたことは、“唯物論”との戦いにおける大きな貢献と言えるでしょう。

大槻教授に通用しなかった「気の威力」

ところがこの番組は、今述べた目を見張るような気の実演だけで終わったのではありません。そうした実演の後に、さらにおもしろい展開が見られることになりました。驚愕きょうがくするような素晴らしい実演に続いて、大槻教授を実験台にして同じような実演がなされ、それが番組に、新たな別の問題を提起することになったのです。

例によって大槻教授は、気功の威力などは認めようとしません。いくら目の前で外国人が気の力によって倒され、操られ、振り回される事実を見せつけられても、それは「ただ疲れているだけだ」と言って認めようとしないのです。そこで教授自らが実験台となって、気を受けることになりました。これが大槻教授のいいところで、参加した気功師の挑戦を、毎回一人で受けて立ったのでした。

スタジオにいた人々、TVを見ていた人々全員が、きっと先ほどと同じような現象が教授にも起こり、教授は倒されたり、操られるようになるだろうと思っていたはずです。気功師は、渾身こんしんの力を振りしぼり、教授に気を投射しました。誰もが、すぐに教授は跳ね飛ばされると思って固唾かたずを呑んで見ていました。そうしてしばらく沈黙の時が過ぎますが、教授は倒れません。必死に倒れまいと戦っているようにも見えます。体に微妙な反応らしい動きも見えますが、なかなか倒れません。そのうち気功師は、「できない」と敗北宣言をしました。教授にとっては、まさに気功の嘘を暴いた誇らしい勝利の一時ひとときでした。こうして日本・韓国・中国の気の達人との直接対決は、ことごとく大槻教授の勝利に終わったのです。

気の実演は、“やらせ”か“インチキ”だったのか?

この場面を見ていた人々は、先ほど投げ飛ばされ、操られた10人の外国人は“さくら”だったのか、あれは“やらせ”だったのかと思ったに違いありません。大男を含む10人もの人間を一度に操ったのが事実なら、それほど大柄でもない大槻教授一人を倒せないはずがないと考えて当然です。おそらくTVを見ていた大半の人々は、さっき見た「気の威力」とは一体何だったのか分からなくなったはずです。あの実演は、嘘か本当か、信じていいものかどうか分からなくなり、中途半端な気持ちだけが残ったと思います。

気の実演が明らかにしたこと、気の実演の意味するもの

唯物論者や否定派の人々は、スタジオにおけるこの一連の出来事によって、「気功のインチキ性」が暴露され、証明されたと思ったことでしょう。否定派は、「気の威力」などもともとあるはずはなく、嘘かせいぜい暗示の類に過ぎないと考えています。では、スタジオで参加者が見せた反応は、“やらせ”か“インチキ”だったのでしょうか。そうではありません。現実に気功師によって倒され、操られたのです。

この一連の気の実演を客観的に述べるならば、次のようになります――「気功の威力は絶大で、一度に何人もの人間を、手を触れずに倒したり、操ることができる」ということ。それと同時に、「大槻教授のように、気の威力が及ばない人間もいる」ということです。TVの実演で明らかにされたことは、この2点なのです。気の威力は事実ですが、気の威力が効かないケースもあるということなのです。

こうした実演の結果を、ありのままに認めることができる人ならば――「では、どんな人間に気功は効力を発揮し、どんな人間には効力を発揮しないのか?」という新たな疑問を持つようになるはずです。「気の威力はうそまことか」ではなく、どうしたら気の威力は発揮され、どうしたら発揮されないのか、という方向に問題意識が移っていくことになるはずです。

どうして大槻教授を倒せなかったのか?

なぜ、大槻教授には気功が効かなかったのでしょうか。結論を言えば、気功が威力を発揮するのは、相手に受け入れる気持ち・受け入れ態勢があるときに限られるという原則があるからなのです。別の言い方をするなら、気を送る者とそれを受ける者との間に、ある種の“共鳴性”が必要だということです。徹底して疑いを持ったり、頭からそんなものはあるはずがないと決めてかかるような人には、気功の力は及ばないのです。そうした人には気の影響力は素通りしてしまい、“のれんに腕押し”といった状況ができてしまうのです。

気の力で相手を倒すには、相手が気功の威力に関心を持っていたり、あるいは好奇心を示すなど、それなりの受け入れ態勢が必要となります。したがって公開実演などでは、影響を受けやすい人間を最初のモデルにして実演し、それを見ていた他の人間に、自然に関心や好奇心を起こさせるように仕向けるのです。信じがたいといったようなレベルの反応でもいいのです。実演と意識の方向性がかみ合えばいいのです。驚きがあれば、なおいい状態ができることになります。なかにはそれを見るだけで信じるような人もいますが、そうした人は最も気の影響を受けやすいのです。

初めは否定的だった人も、目の前で事実を見せつけられると、自分のうちに納得できる説明(否定理由)を見い出せない限り、不安になり、かたくなに構えていた心にスキができるようになります。このようなとき次々と実演を見せられると、大半の人は抵抗する力を失い始めます。“潜在意識”は、そうした状況下で「気の威力」を受け入れようと動き出します。そしていつの間にか、自分から気の威力に簡単に反応するようになってしまうのです。

TVに出演した気功師は、最初に心の受け入れ態勢・気の共鳴状態をつくるために、相手を直立させ、これを意図的に押してぐらつかせるようなことを繰り返しています。これは気の力に反応させやすくするための呼び水のようなものです。気の実演におけるこうした状況は、実は「催眠術」と全く同じなのです。相手に暗示を受け入れる姿勢がない限り、催眠術は成功しません。催眠術師がいくら必死に暗示を与えても、相手が暗示に意識を向けない限りコントロールはできないのです。

もし皆さんが催眠術にかからないようにするためには、相手の暗示に耳を傾けなければいいのです。てっとり早いところでは、耳栓をして催眠術師の声が聞こえないようにしたり、催眠術師と視線を合わせないようにして、あらぬ方向を見ていればいいのです。あるいは相手が何を言っても、自分の頭の中で別のことを一生懸命考えていればいいのです。要は相手の言葉に意識を合わせないということが肝心で、相手が突如、指を目の前に突き出しても動じず、「この人の指は汚いなあ」などと、とっさに指の観察に意識を切り替えてしまうのです。こうして意識を徹底してずらせば、そのうちに催眠術師は疲れ果てて続けられなくなります。

気功も催眠術も、サイキックレベルの世界に係わる以上、相手との“共鳴性”が決め手となります。大槻教授は、そのあたりのコツを敏感に察知していたのでしょう。必死に自分の心の世界を崩さないようにしている様子が見られました。もちろん心の底から「そんなものは、あるはずがない」と思う堅い信念があればこそ、自分が試される場に置かれても、何とか心を維持できたのです。これは、やはり信念が大きな力を持つことを示しています。

日本の気の行者と中国の気の達人が直接対決し、日本の行者が跳ね飛ばされて骨折してしまいました。気の威力を常に高めようとしている人間同士が気をぶつけ合うと、必ずこうした結果になります。普通の人以上に気の威力を知っているため、よけいに反応が大きくなるのです。激しい剛と剛とのぶつかり合いの様相を呈します。10人の人間を動かす力が堅い塊となって、そのまま相手に投げかけられるのと同じことになるのです。

もし一方が、相手と気がかみ合わないように意識を別の方向に向ければ、相手を倒すことはできませんが、自分も倒されずに済むことになります。賢明な闘い方は、初めに相手と意識を相応させないようにし、相手だけに力を振り絞らせ、疲れさせることです。相手が疲れてきたら、それから相手に向けて気を送るようにするのです。そうすれば、いかに相手が強力な気の達人でも、必ず勝てるようになります。「柔よく剛を制す」とは、まさにこのことなのです。気の達人や行者にはプライドがあるため、初めから全力で相手に立ち向かおうとします。そのためそうした者同士の対決は、どちらかが跳ね飛ばされるまで収まらないようになっています。気功とはそういうものなのです。

話は少し変わりますが、昔から「敵を呪い殺すこと(呪詛じゅそ)」が行われてきました。ワラ人形にクギを打ち込むという呪術も、この一種と言えます。これらはいずれも「サイキック能力」を用いた方法で、気功と同じような性質を持っています。つまり呪詛の相手が、こうしたことを信じている人間であってこそ力を発揮するのです。昔は“御霊ごりょう信仰”が社会の隅々まで浸透していたため、誰もがそれを事実として受け入れ、信じ、恐れていました。そのために、呪詛やワラ人形が確かな力を発揮することができたのです。

しかし現在のように、呪詛など頭から馬鹿にし否定するような時代では、同じようなことをしても、相手がよほど霊的に敏感でない限り、効き目はほとんど現れません。低級霊が関与しない限り、自分のサイキック能力だけでは、効果が少なくなっているのです。

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