これまで日本には何故、正しいスピリチュアリズムが存在しなかったのか

――スピリチュアリズムの基本プロセスー真理・信仰・実践

ニューズレター第11号

スピリチュアリズムにおける最も基本的なプロセスとは

スピリチュアリズムが霊界の高級霊によって興されたプロジェクトであることは今さら言うまでもありませんが、その高級霊による計画の目的は、地上人類を救うために「霊的真理」を地上にもたらすというものです。これこそが、スピリチュアリズムの最も本質的な点なのです。スピリチュアリストとは、そうした高級霊の働きかけによって地上において真っ先に霊的真理と出会った人間、真理を受け入れ、他の人々に先駆けて霊的恩恵にあずかった人間ということになります。

スピリチュアリズムによって地上世界にもたらされた「霊的真理」は、どこまでも霊性を進化させるための手引きであり、霊的実践のためのガイドです。霊界の高級霊が、これまで地上人が全く知ることのなかった霊的真理を示したのは、単に目新しい知識や情報を与えるためではありません。地上人の霊性を高め、魂を救うために与えたのです。霊的真理を実行することによって「霊的成長」をなし、死後に苦しみや後悔を残さないように与えたのです。

このことを、真理を受ける私達地上人の立場から考えてみるならば、以下のような一連の流れの中で進展していくことになります。まず霊的真理と出会うこと、次にそれを正しく理解すること(真理の正確な理解)、そしてそれを絶対的に信頼し人生の指針・生活の方針とすること(真理への絶対信頼・絶対信仰)、さらにそれを実生活の中で実行すること、その結果として霊的向上をなし魂の救いを得るということです。別の言い方をすれば、スピリチュアリストの歩みとは、真理→真理に基づく信仰→真理の実践→魂の成長という一連の霊的成長のためのプロセスであるということになります。この全てのプロセスこそが、スピリチュアリズムに他なりません。

このスピリチュアリズムの基本的なプロセス・流れをしっかりと押さえておかないと、多くの知識を得れば得るほど、全体の流れを見失い、肝心な点がどこかに飛んでいってしまいます。自分なりの勝手なスピリチュアリズムの解釈をすることになります。

読むには読んだが、内容を理解していない現状

霊的真理の正しい理解が、スピリチュアリズムの出発点であることは言うまでもありません。霊的真理の正確な理解なくして、スピリチュアリズムの道を正しく歩むことはできません。無駄な努力、無意味で的外れな努力をすることにもなりかねません。『シルバーバーチの霊訓』やモーゼスの『霊訓』、その他のスピリチュアリズム関係の本を読むことで、スピリチュアリストになったかのように勘違いしている方々がいらっしゃいます。

本を読むことの目的は、そこに書かれている内容を正しく理解するところにあります。しかるに、この内容を正しく理解するという当たり前のことが、現在のスピリチュアリズムにおいては、まだ十分に行われていないのです。実際、シルバーバーチの霊訓を10年以上にわたって愛読していながら、その内容を間違って理解している方々が見受けられます。シルバーバーチの霊訓を始め、すべてのスピリチュアリズム関連の書物を持っているにもかかわらず、それを正しく理解している方は、率直に言って本当にわずかしかいないのです。

それには理由があります。『シルバーバーチの霊訓』一つをとっても、現在、日本では20冊近くの本が出版されています。それらを一通り読むだけで大変な時間がかかります。さらに、それらの内容をまとめ全体のポイントを正確に把握するには、多くの時間が必要とされます。2、3度読んだだけで、シルバーバーチの全体像を適確にとらえることはできません。何十回と繰り返し読まない限り、全体の内容を正確に理解することは不可能なのです。全体像を正しく理解しポイントを要約(サマライズ)することは、それほどまでに時間のかかることなのです。

しかし、そうした作業をへない限り、いつまでたってもシルバーバーチを正確に理解することはできません。たとえシルバーバーチを片っ端から読破しても、それだけでは駄目なのです。ましてその後、次々と別の本へと進んでいくならば、シルバーバーチの内容は流され、後には、ほんのわずかな印象しか残らないことになります。これが大半の人々の実情です。シルバーバーチを読むには読んだが、その内容を理解していないのです。確かにシルバーバーチを読んだのですが、結局、何も残っていないのです。

あれこれと多くの霊界通信やスピリチュアリズム関係の書物を読み漁る人に限って、シルバーバーチも他の宗教の教えも同じであるとか、どちらも良いことを言っているといった程度の理解しかしていません。本当に分かってみれば、スピリチュアリズムほど霊界の事実を明らかにしているものは他にないのですが、その違いが分からないのです。スピリチュアリズムほど正確でスケールの大きな知識の体系は、地上世界には存在しません。

現在の日本のスピリチュアリズムにおける問題点の一つは、真っ先にスピリチュアリズムと出会った人々が、霊的真理の内容とその価値を正しく理解していないということなのです。

身勝手な真理の理解をする人々

人間は誰でも自分の好みを通して本の内容を理解しようとします。自分に心地よいものだけを取り入れようとします。自分の好みや考えと一致しているものは正しく、自分の考えと合わないものは間違っていると決めつけようとします。こうした傾向は、霊訓を読む際にも現れます。『シルバーバーチの霊訓』に対して、その中にある自分の好みと一致しているものだけを選び取り、そうでないものは流して読み進めることになります。シルバーバーチが語る優しい言葉、慰めとなる言葉、愛についての言葉だけが心に残り、厳しい内容や心に痛い箇所は読み飛ばし忘れてしまいます。それは丁度、占い師に将来の運命を観てもらうとき、良いことだけを信じ、悪いことは信じないようにするのと同じです。これと同様の感覚で、シルバーバーチを読んでいる方が多いのです。自己に甘いクリスチャンが、イエス様は優しく罪を許してくださると勝手に都合の良いイメージを作り上げるのと同じような傾向が、スピリチュアリズムにおいても見られるのです。

心地よさや優しさ、慰めを求めるのは人間としての自然な姿ですが、そうした甘さだけを「霊的真理」に求めるとするならば、いつまでたっても真理を正しく理解することはできません。霊的成長の道を歩むことはできません。シルバーバーチを10年以上も愛読しながら、依然として自分なりの世界を一歩も脱け出せない人がいます。「スピリチュアリズムだけが優れているかのように言うのは教条的で偏狭である」と言う人に限って、何一つ霊的真理の本質を理解していないのです。真理の正確な理解は、ムードによってなされるものではなく、理性を最大限にまで厳しく用いて初めて可能となるのです。

「スピリチュアリズムの最大の敵は、外部ではなく内部にいる――つまり、生半可なまはんかな知識で全てを悟ったつもりでいる人たちが、往々にして最大の障害となっているように見受けられます。」

『古代霊シルバーバーチ 新たなる啓示』(ハート出版)p.46

霊的真理のアウトラインを正しくとらえる

このニューズレターの目的は、『シルバーバーチの霊訓』やモーゼスの『霊訓』を始めとするスピリチュアリズムの教えが、地上世界において最も素晴らしいものであることを皆さんに再認識していただくことにあります。ニューズレターは、スピリチュアリズムがいかに優れたものであるかを宣伝するために発行しているのです。皆さんがすでに手にしておられる「霊訓」が、どれほど素晴らしいものであるかを改めて知っていただき、それを、これからの人生における“最高の指針”にしてくださることを願っています。これまで実際に、このニューズレターによって霊訓の価値を再認識し、霊訓を人生の最高の指針と定め、新たな霊的人生を歩み始めた多くの方々がいらっしゃいます。

当サークルでは、『スピリチュアリズム入門』『続スピリチュアリズム入門』を出版していますが、これらは膨大な量に及ぶスピリチュアリズム関係の知識を体系的に理解できるようにまとめたものです。スピリチュアリズムのアウトラインを正しく理解していただくことを意図しています。アウトラインをしっかり押さえてから「霊訓」へと読み進めていくなら、その内容を偏りなく理解していただけるものと思います。

日常の実践を通じて深められる霊的真理への理解

霊的真理は、何度も繰り返し読むことで、徐々に全体像が理解できるようになっていきます。またその一方で、実践と照らしながら読み進める中で、その深い意味が理解できるようになります。霊的真理の理解は、“実体験”という霊的現場を通して深められていくものなのです――「たとえ世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えません。霊的生長というのは実際に物ごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。」『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)p.83~84

霊的真理を単なる知識や学問とせず、人生の指針・心を整理してくれる指導書として日常生活に活用するなら、時間とともに、真理が立体的に理解できるようになっていきます。皆さん方にはぜひ、そうした正しい霊的真理の学び方を身に付けていただきたいのです。霊訓の学習を通じて、生き生きとした霊的世界との交わりを知っていただきたいと思います。

そのためには、常に『シルバーバーチの霊訓』を2、3冊手元に置き、“座右の銘”として絶えず読み返すことが必要です。寂しさで心が乱れたときの支えにしたり、心が不安定なときの拠りどころにしたり、力が萎えたときの活力源にするのが良いのです。実生活を常に「霊的真理」とともに過ごすようにするのです。そうしたプロセスを2、3年続けるうちに、霊的真理との馴染みが進み、いつも心が真理によって満たされ導かれるようになってきます。こうして、いったん霊的真理との馴染みが形成されれば、他の巻の内容も早く正確に理解することができるようになっていきます。

このように実生活への適用とそこからのフィードバックを繰り返すことによって、「霊的真理」の深い世界が徐々に理解できるようになっていきます。優れたクリスチャンが聖書を常に手元におき、毎日のように繰り返し読み、心を整理してきたように、私達にも、心の糧として「霊訓」に接する姿勢が必要とされるのです。

霊訓は、それを知識として読んでいる限りは、その内容を正確に理解することはできません。読書会や学習会で霊訓を読むことは決して意味のないことではありませんが、その際、霊訓は日常生活を導くための道しるべ、あるいは心の問題を解決するための指導書として位置付けすることが大切です。霊的エネルギーが少しも湧き立たないような知識中心の学習をしたり、語句の解釈を巡って延々と議論したりといった学習では、何の進展も魂への刺激もありません。自分一人で霊訓をじっくり読む方が、どれほど魂にプラスとなるか知れません。何のための学習会なのか? 単なる知識や新しい情報を得るためなのか? 学問的対象として真理を学ぶためなのか?――もしそうであるなら、そうした学習会は時間の無駄と言わなければなりません。

再度述べますが、霊的真理を正しく理解し、さらにその理解を深めるためには、霊訓を“魂の糧”として日常的に繰り返し読み続けることが必要です。あれもこれもと手を広げたり、知識レベル・情報レベルにおいて霊訓に接する限り、霊的真理は私達の「霊性」と係わりを持つことができないのです。

「この交霊会での知識は、週に一度わずか一時間あまりの間だけの知識として取っておいていただいては困ります。」

『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.41

「霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来あがります。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.63

「霊的真理は、これを日常生活に活用すれば、不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。」

『シルバーバーチの霊訓(1)』(潮文社)p.97

スピリチュアリズムは“完璧な信仰”

さらに現在の日本のスピリチュアリズムにおける問題点の一つとして、スピリチュアリスト自身が、スピリチュアリズムは信仰ではないと思っていることがあげられます。これはスピリチュアリストが霊的真理を正しく理解していないのと同様に、スピリチュアリズムにおける重大で深刻な問題です。

シルバーバーチやインペレーターは、たびたび“実践”の重要性を強調します。シルバーバーチはよく――「大切なのは何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかなのです」とか、「人へのサービスこそが真の宗教です」と言っています。さらに、「どのようなことでも人のためになることならば、価値があるのです」とも言っています。何を信じたかではなく、何を行ったかが大切であると繰り返し述べています。このため、かなり多くの人々が、スピリチュアリズムは信仰ではないと“錯覚”することになりました。

しかし、それはシルバーバーチやインペレーターの言葉の一面にとらわれた見方に過ぎません。シルバーバーチは別のところで、スピリチュアリズムは“完璧な信仰”でなければならないと明確に述べています。――「ここにお集まりの皆さんは、完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜならば皆さんは、死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。」『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)p.17

霊的真理に対して絶対の信頼、絶対の信仰を寄せるべきであると訴えています。

“完璧な信仰”とは何か

完璧な信仰が何であるかは、シルバーバーチの言葉の中に示されています。シルバーバーチの姿勢は、まさに完璧な信仰の見本なのです。「霊的事実」に対する絶対信頼という信仰の見本なのです。

私達はシルバーバーチにならって、スピリチュアリズムに対する確信を堂々と主張すべきです。スピリチュアリズムによってもたらされた「霊的真理」は地上のいかなるものより優れ、これに並ぶものはない。スピリチュアリズムのために働けることは、他のどんなボランティアよりも、ずっと価値のあることであると断言すべきなのです。それをしたとしても狂信ではありません。それどころか、そうした信念と絶対信頼を持ってスピリチュアリズムの素晴らしさを主張することこそが、正しい信仰と言えるのです。

スピリチュアリズムを他の地上の宗教と同列視することは、無知のなせる業です。スピリチュアリズムに絶対性を認めようとしないことは、本質を何も理解していないということです。それは単なる偽善的道徳者としての生き方、外面そとづらだけを整え、他人との表面的な争いだけを避ければ良いという浅薄な生き方なのです。

スピリチュアリズムが絶対的な信仰・完璧な信仰であると認めることを嫌っている人は、もう一度「霊訓」をじっくりと読み返すべきでしょう。そして、スピリチュアリズムを単なる道徳レベルから、生命いのちを懸けて信じ抜く絶対的な信仰レベル・完璧な信仰レベルへと引き上げるべきなのです。地上の全てのものを捨てても、地上の全ての人々が反対しても、絶対にスピリチュアリズムだけは正しいとの信念を持つべきなのです。これがシルバーバーチに倣って、私達が身に付けるべき絶対的な信仰なのです。

スピリチュアリストは歴史上の殉教者に負けないほどの――「神」「神の造られた法則」「霊的真理」「霊界の高級霊」に対する絶対信頼、完璧な信仰を持つべきです。スピリチュアリズムの正当性・優秀性・卓越性を、声を大にして訴えられない者が、どうしてスピリチュアリストと言えるでしょうか。スピリチュアリズムだけは絶対に正しいと断言することは盲信でないどころか、純粋さと信念から出る当然の行為なのです。完璧な信仰とは、霊的真理(霊的事実)に対する絶対信頼であり、それはまさに真理に対する一途で揺るぎない確信のことなのです。

「単なる信仰、盲目的信仰は烈しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰は、いかなる嵐にもびくともしません。」

『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)p.16

スピリチュアリズムを狂信・盲信と錯覚する、この世の人々

シルバーバーチは、神と神の造った法則、さらに高級霊界に対する絶対信頼をたびたび披露します。シルバーバーチの霊界上層に対する絶対信頼は、見方によっては無条件の信仰、狂信・盲信に近いもののように映ります。スピリチュアリズムに反対する人々にとっては、シルバーバーチの言い方は狂信的断言のように感じられるはずです。一般的な観点に立てば、スピリチュアリズムは狂信であると考えたとしても当然です。現にスピリチュアリズムに反対する人々から、スピリチュアリズムといっても結局は、自分達の考えが一番偉い、一番正しいと思い込んでいるだけで、狂信・盲信に過ぎないとの批判を受けることがあります。その人々にとっては、シルバーバーチは、シルバーバーチ自身が嫌う独断論者に他ならないことになります。

しかし、シルバーバーチは私達に対していつも――「盲信はいけません。常に理性に照らし合わせて自分の道を求めなさい」と教えています。

この世の人々が、シルバーバーチが霊的真理や神の摂理に対する絶対性・無誤謬性むごびゅうせいを強調することを狂信・盲信だと思うのは、真理を知らないからなのです。私達がシルバーバーチの姿勢を偏狭ととらえることはないはずです。シルバーバーチが「地上には霊界に比較するものがない」と断言しても、それを独断と思うことはありません。「キリスト教は根本的に間違っている」と非難しても、シルバーバーチに愛がないとは考えません。シルバーバーチの強烈さ、激しい主張を、私達は決して狂信とは思いません。それどころか、シルバーバーチが常に冷静で客観的でバランスのとれた判断をし、愛情に満ちあふれた高級霊であることを確信しています。それは、私達が地上と霊界が全く価値観の違う世界であることを「霊的真理」を通じて知っているからなのです。

シルバーバーチの言う“狂信・盲信”とは

シルバーバーチが狂信や盲信ではいけないと言っている言葉を、信仰それ自体を否定するものと取ってはなりません。この点を多くの人々が勘違いしているようです。シルバーバーチの言葉の一部を取り上げ、スピリチュアリズムは信仰ではないと言うことは明らかに間違いなのです。スピリチュアリズムは信仰でないどころか、人生のすべてを懸けた完璧な信仰でなければならないのです。

シルバーバーチが言う“狂信・盲信”とは、地上における特定の宗教や組織・思想・人物を絶対視し、これに無批判に服従することを指しています。霊界の事情と地上の事情は全く異なります。地上には絶対的なものは存在しません。地上はあまりにも不完全な世界であり、地上の社会は不完全な人間から成り立っています。そして不完全な組織しか作り上げることができません。そのためシルバーバーチは、地上のいかなるものに対しても絶対的な信頼を寄せてはならないと言っているのです。こうした深い事情を知らない人々が、スピリチュアリズムと他の地上の宗教や思想を同列に置いて非難したとしても、相手にしてはなりません。狂信・盲信とは、地上の宗教・思想・人物を絶対信頼し、それに絶対服従することを指しているのです。

人間は、誰か力のある存在に頼りたいという心の本性を持っています。自分以上に力のある者に従い、安心を得たいという傾向を持っています。このため地上では、洗脳がいとも簡単に行えることになります。絶対的なものへの依頼性は、本来「神」に向けて発露されるように与えられているのですが、それが地上の特定の組織や人物に向けられることによって、狂信・盲信といったことが生じてしまうのです。不完全なものや人物を、絶対的な信仰の対象とするようになってしまうのです。そして、そこから人物崇拝・贖罪思想などの程度の悪い救済観が出てくることになるのです。これこそが“狂信・盲信”の実態なのです。

スピリチュアリズムの“信仰対象”とは

スピリチュアリズムは信仰ですが、その信仰対象とするもの、絶対的に信頼するものは、地上的なものや地上の人物ではありません。また特定の霊でもありません。信仰対象とするものは、神でありその摂理であり、霊的事実以外にはありません。贖罪などは一切認めません。すべて自分が霊的摂理に合わせ、自分で自分を救う自力信仰なのです。自分の霊的成長は自分で果たすという自己責任の信仰なのです。地上の他の宗教に見られる狂信・盲信の類いから、最も遠いところにあるのが「スピリチュアリズム」なのです。スピリチュアリズムの最高責任者である、イエスに対する崇拝も帰依も不必要な信仰なのです。

「いかなる人物であろうと、いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、いかなる指導者であろうと――それが地上の存在であっても霊界の存在であっても、たった一つのものに盲従してはいけない、それよりも大霊が定められた大自然の摂理に従いなさい。これだけは絶対に誤ることがなく、絶対に正しいからです。」

『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)p.237

霊的真理の実践こそが、スピリチュアリストの真価を決定する

霊界が大変な苦労をして「霊的真理」を地上にもたらしたのは、それがなければ、地上人の救いは成就しないからです。霊的真理は、私達がそれを指針にして霊的人生を歩み、霊的救いを得るために与えられています。実践することを初めから想定して与えられているのです。つまりスピリチュアリズムの霊的知識は思想や哲学や学問ではなく、「実践」をメインとした宗教の教えに近いものなのです。霊的真理は学問・研究の対象として、あれこれ解釈したり、勝手なこじつけをしたり、こねくり回したりするものではありません。どのように生きたら良いのか、どのように考え判断したら良いのかを知るために与えられたものなのです。その意味で、真理を手にしながらもそれを実行に移さない人は、せっかくの宝をわざわざどぶに捨てるようなことをしていることになります。健康法を学んでも、それを実行しようとしない病人と同じことになるのです。

私達が「スピリチュアリスト」として霊界から認められるかどうかは、霊的真理を日常生活の中で活用しようとしているか否かで決められます。真理を手にしながら知的好奇心のレベルにとどまっている人は、スピリチュアリストとは言えません。

シルバーバーチもインペレーターも行為の重要性を強調します。シルバーバーチは次のように述べています――「大切なのは行いです。行為です。つまり各人の毎日の生活そのものです」『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.71) 「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡たかで測れるものではありません。行為によって測るべきです」『シルバーバーチの霊訓(6)』(潮文社)p.27) 「要は、その人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有った方がましです。が、その人の真価は毎日をどう生きてきたかに尽きます」『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)p.140~141

インペレーターは――「我々は信条にはさしてこだわりません。それよりも我々は行為を重要視します。何を信じていたかは問いません。何を為したかを問います。(中略)言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのです。我々の説く宗教は、行為と習性の宗教であり……『霊訓(完訳・下)』(スピリチュアリズム普及会)p.40)と言っています。

もしスピリチュアリズムに導かれながらも、依然としてスピリチュアリズムを単なる知識の対象として研究に終始していたり、真理は真理、日常生活は日常生活で別物だと考えているならば、霊界の導きを裏切ることになります。いつまでも知識の収集や無意味な学習会、言葉の遊びや哲学ごっこをしていてはなりません。私達の意識が常に「霊的成長と奉仕・伝道」に向けられていないとしたら、スピリチュアリストとは言えないのです。率直に言って、シルバーバーチを読んでいると言いながら、霊的真理と全く無関係な歩みをしている人を見かけます。この世の人間と同じように、煩悩のままに流され傲慢になり、謙虚さとはほど遠い人がいるのです。内面的な努力をすることさえ忘れてしまっているような、情けない自称スピリチュアリストに出会うこともあります。

スピリチュアリズムの実践とは、奉仕だけではない

シルバーバーチは、「宗教とはサービスです」と言っています。人のためになることなら、どんなことでも価値があると言います。無償の奉仕は、まさにスピリチュアリズムの利他愛の実践に他なりません。奉仕こそ私達が常に心がけることです。人のためになること、人助けを人生の目標・日常生活の目的にしなければなりません。

しかしシルバーバーチが霊的真理の実践というとき、それはただ奉仕・人助けだけを意味しているのではありません。この点についても多くの人々が勘違いしています。スピリチュアリズムにおける「実践」とは、利他愛の実践だけではありません。

「生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。行為さえ立派であれば良いというものではありません。むろん行為が一番大切です。しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。」

『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)p.29

シルバーバーチが明かした霊的成長のために踏まなければならない実践項目は、「霊主肉従の努力」「苦しみへの正しい対処」「利他愛の実践」「瞑想・祈り」の4つから成り立っています。スピリチュアリズムにおける実践とは、この4つの項目をすべて満たすことです。どれが欠けても霊的人生にとってマイナスとなります。すべてが霊的成長のための努力の内容ということになります。これらについては、すでにニューズレターで一つ一つ取り上げ述べましたので、ここでは省略します。

スピリチュアリズムとボランティアの違い

人のためになること、自分より恵まれない人々のために無償の奉仕をすることといえば、誰もがボランティアを思い出します。私達のサークルにも、全国各地のボランティア参加者や主催者から多くのお手紙をいただきます。人々のために奉仕するボランティアは、まさにスピリチュアリズムの利他愛と同一線上にあります。それは殊勝な心がけであり、同じ国民としてありがたいことと感謝せずにはいられません。

さて、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは奉仕の内容についてです。シルバーバーチは確かに、人のためになることなら何でも良いと言っています。その意味で、スピリチュアリズムとボランティアは同じと言えます。しかしスピリチュアリズムが最優先して与えようとしているのは、何よりも永遠の魂の救いをもたらす「霊的真理」であることを忘れてはなりません。霊界が大変な努力をしてスピリチュアリズムの運動を展開してきたのは、霊的真理を地上人に教え、永遠の救いをもたらすためなのです。

この点を考えると、スピリチュアリズムに出会った人が、霊的真理の普及を第一にせず、それ以外のことを優先するのは間違いであることになります。霊的真理を知った人が、世間一般のボランティアと同じことをして満足するのは許されないことになります。真理を知っているということは、いまだ一般の人々が知らない救いの方法を知っているという特別な立場に立っているということを意味します。本当の救いを知らない人々に、真実の道を教える霊界の人々と同じ立場に立っているのです。スピリチュアリストは霊界の「高級霊の道具」として、霊的真理を一人でも多くの人々に伝える使命を持っています。地上の人々に対して、最高次元の奉仕と人助けをする特別な役割を担っているのです。

従って「霊的真理」を知りながら、それを他人に伝えようとしない人は、大きな“利己主義”の過ちを犯すことになります。どのようなボランティアよりも遥かに優れた人助けの方法を知りながら、自分なりのボランティアで善しとすることは、スピリチュアリズムに導かれた人間にとっては許されないことなのです。物質レベルでの人助け、肉体レベルでの奉仕は、他の人が代わりを務めることができます。しかし、霊的真理を伝え霊的救いの道を示すことは、他の人では代わりが効かないのです。大きな奉仕の立場とチャンスを与えられながら、わざわざ低いもので満足することは間違っているのです。

霊的摂理の存在を知った者の責任の重大性を説いて――

「地上の同胞の心身の糧となる霊的事実の中継役をする人たちには、大変な責任が担わされています。その態度いかんが地上生活において、あるいは霊の世界へ来てから、その責任を問われることになります。」

『シルバーバーチの霊訓(4)』(潮文社)p.32

「私は決して、世にいう社会改革者たち――義憤に駆られ、抑圧された者や弱き者へのやむにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、神の物的な恵みがすべての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々を、ないがしろにするつもりは毛頭ありません。ただ、その人たちは問題の一部しか見ていない――物的な面での平等のために闘っているに過ぎないということです。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)p.126

最優先すべき奉仕活動は、霊的真理の伝道

霊的真理の伝道を利他愛の実践の中心に置き、その上で、その他の人助け・奉仕に励めば良いのです。どちらに優先順位をつけるかで、私達のなす利他的行為の価値が決定されることになります。霊的真理を知りながら、それとは関連性のないボランティアをしたところで、霊的価値は持ち得ません。どんなことでも人のためなら良いというのは、いまだ真理を知らない人にとってのみ言えることなのです。霊的真理を他人に先駆けて知ったということの重大性を、決して無視してはなりません。すでに一般の人々とは違った立場にいることを意識することが大切なのです。

シルバーバーチがもし、「霊的真理」を語るという使命を放棄し、自分なりに勝手に“心霊治療”に切り替えてしまうとするなら、大変な間違いを犯すことになるのは容易に想像がつくはずです。

「私の関心事は真理を普及することだけです。真理こそが最も大切です。私の言う新しい世界が基盤とすべき永遠不変の霊的真理を理解していただくために、私は、ひたすら自分を役立てることだけを考えております。その大事業から外れたことをする人は、本来同胞のために捧げるべきエネルギーをムダづかいしていることになるのです。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)p.162

病気に苦しむ人を心霊治療で癒すことは大変な人助けです。一般には、無料で病気を治してあげることほど偉大な奉仕・利他愛・人助けはないと思われています。しかしシルバーバーチは、肉体の病気を治すことより“心の覚醒”を促すことの方がずっと大切であると言っています。病気が治っても心が変化しなければ、その治療は失敗であるとまで言っています。これは「霊的真理」を伝えることが、いかほど大きな人助けの行為であるかを示しています。霊的救いをもたらすことは、どんな肉体・物質レベルの奉仕よりも価値があることなのです。

「人のためになることをしなさい」という言葉は、スピリチュアリストにとっては、「いまだ霊的真理を知らない一人でも多くの人々にそれを伝えなさい」ということに他なりません。その上で、日常生活において出来るかぎり周りの人々に対して奉仕をしなさい、ということなのです。霊的真理の普及を奉仕の“核”とするということです。この順序を間違えてはなりません。

他人への奉仕・伝道の前に、まず自己の修養が必要

シルバーバーチは――「霊的真理のメッセンジャーみずからがそれを日常生活において体現し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目になるほど神のメッセンジャーであることを認識させることです。それから今度は積極的に世に出て、社会生活のすべての面に応用していってほしいのです。つまり、まずみずからが身を修め、それから他人のために自分を役立てる仕事に着手するということです」『シルバーバーチの霊訓(5)』(潮文社)p.51)と述べています。

奉仕活動をするより先に自己の修養をしなさい、ということですが、地上にいる限り私達は、どこまでも完全な人格を持つことはできません。未熟さをすっかり拭い去ることはできません。ですからここでの“自己の修養”とは、まず自分を霊的真理にそわせる努力をしなさい、という意味にとらえるべきです。自分の成長のための努力、内面的な努力を無視して他人に奉仕したとしても、意味がないということです。

現実に、自分自身に厳しく臨むことなく奉仕活動に一生懸命に励む人がいますが、その矛盾は時間とともに表面化することになります。奉仕活動にたずさわりながら、利己心から醜い対立や内部紛争が生じることがよくあります。人のためにと思って出発したボランティアが、いつの間にか当事者の“自己満足”に終わってしまうことが実に多いのです。キリスト教におけるボランティアは、神の愛に基づく精神に立脚しているため、個人的な見栄や自己満足といった問題を初めからクリヤーしています。そのため人間の利己性から生じる問題の噴出は少ないのですが、単なる人助けといった道徳レベル・人道主義レベルのボランティアでは、最後には必ず人間の煩悩の問題に巻き込まれることになります。責任者ばかりでなくメンバー各自においても、厳しい自己コントロールが先行しないボランティアでは、道を間違えるような事態が引き起こされます。霊界における救いまでも見通したボランティアでない限り、いつの間にか偽善的行為に堕ちてしまうのが世の常なのです。もっともシルバーバーチに言わせれば、偽善的ボランティアでもしないよりはましとのことですが……

自己コントロールの先行しない奉仕活動、あるいは霊界を意識しない奉仕活動は、結局、単なる外部的な活動になってしまいます。ボランティアはいつの間にか人助けから自己満足へとすり変わり、相手よりも自分のための利己的な行為に変質してしまいます。ボランティアが自分の満足のための道具に過ぎないといったことにもなりかねません。

スピリチュアリズムでいうところの「利他愛」とは、ただ神と霊界の人々の目だけを意識してなす純粋な行為です。自分の利益や満足を求めず、ひたすら「神の道具」として無私の立場でなすべき行為です。一切の報酬を期待しない無償の行為なのです。自己犠牲を伴わないボランティアは、純粋な利他的行為とは言えません。自己の利益を確保した上で余ったものを与える、というのであれば、純粋な利他的行為とは言えません。

スピリチュアリズム新時代の到来

――本物のスピリチュアリズム普及の始まり

スピリチュアリズムとは、高級霊が苦労してもたらした霊的真理を正しく理解し、霊的真理に対する絶対的な信仰を確立し、霊的真理を現実に実践する霊的人生のことです。地上において真理→完璧な信仰→厳しい実践という3つのプロセスを繰り返しながら、全体の霊性を徐々に引き上げていく歩みのことです。霊的真理によって始まり、それを信仰に高め、実践に移す、一連のプロセスのことなのです。その結果、死後の世界に対する霊的準備がなされ、「霊的成長」という人間にとって最も有意義な地上人生を送ることが可能となるのです。

これまでの日本のスピリチュアリズムにおける問題点は、霊的真理が正確に理解されていなかったということです。部分だけの解釈や、肝心な点を見落とした解釈や、勝手な解釈をして、それで良しとされてきたのです。また真理が理解できても、それを知識レベルに止めるだけで、信仰レベルにまで意識化することができませんでした。スピリチュアリズムを生き方の信念とすることができなかったのです。スピリチュアリズムが信仰であることを意識的に避けようとする愚かしい風潮さえ生まれてきました。「霊的真理」は、信仰の指針として絶対視されなければなりません。スピリチュアリズムは教条主義だと非難されても、それを恐れてはなりません。

さらにもう一つの大きな問題点は、霊的真理を真剣に実践に移そうとする人々がいなかったことです。それどころか、スピリチュアリズムの名をかたり、利益追及や名誉追及が堂々と行われてきました。スピリチュアリズムの霊的知識をバックにして、祈祷や心霊治療で金儲けをしたり、新興宗教と同じようなグループを作ったりといったことが行われてきました。現実に、スピリチュアリズムの名を汚すようなことばかりが横行してきたのです。その結果、良識ある人々にスピリチュアリズムに対する幻滅を与えることになりました。

日本には古くからスピリチュアリズムが紹介されてきたものの、現在に至るまで、それが正しく実を結ぶことはありませんでした。スピリチュアリズムの正しい伝統が、今なお日本には定着していないのです。これが日本のスピリチュアリズムの偽らざる実態なのです。あまりの内容のなさに、霊界の高級霊が働きかけたくとも働きかけられない状態だったのです。これらはすべて真理の正しい理解・意識の信仰化・純粋な実践という、スピリチュアリズムの基本原則が全くないがしろにされてきた結果です。

一方、いまだスピリチュアリズムと出会うことなく、従来の宗教において一生懸命に歩んでいる多くの人々がいます。わずかばかりの霊的真理が与えられているに過ぎない中で、命懸けの信仰をし、人生のすべてをそこに懸けている人々がいます。スピリチュアリズムのような高度な真理はないにもかかわらず、スピリチュアリズムが目指す「完璧な信仰心」を持ち、自分を捨てて「純粋な実践」に邁進しているのです。そうした人々に対しても、霊界の準備は着々と進められています。時期が至れば、今は他の宗教で励んでいる人々も、やがてスピリチュアリズムのもとへ導かれることになります。このような人々が一度ひとたび「スピリチュアリズム」と出会えば、スピリチュアリズムの霊的真理の価値を初めから正しく理解し、スピリチュアリズムを即座に信仰的にとらえ、スピリチュアリズムのために人生を捧げることになるでしょう。一気に高いレベルでの歩みが始まるのです。これまで20年、30年とスピリチュアリズムに慣れ親しんできた人々を乗り越えて、初めから「高級霊の道具」として歩み出すことになります。つまり今現在、多くの人々が将来のスピリチュアリストとしての道を、他の宗教の中で歩んでいるということなのです。

先の者が後になり、後の者が先になるといったことが、これからの日本のスピリチュアリズムにおいて現実に起こってきます。そうした純粋な人々によって、日本に正しいスピリチュアリズムが定着するようになっていくのです。一旦、正しいスピリチュアリズムの伝統が確立しさえすれば、霊界の働きかけはさらに強烈になり、日本のスピリチュアリズムは加速度的に広がっていくようになるのです。

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