皆さんのご質問にお答えして

――天変地異

ニューズレター第9号

質問……天変地異について

今年1月17日は、阪神大震災から5年目を迎え、被災地では追悼集会が行われました。涙ながらに犠牲者の冥福を祈る遺族の姿を見ると、同情してしまいます。このように大震災で6千人以上の人々が同時に亡くなるということは、何か共通の原因があったためでしょうか。また多くの人命を一瞬に奪う大震災などの天変地異は、スピリチュアリズムの立場からどのように考えればよいのでしょうか。

答え

迷信深い人々の中では、よく“天変地異”が人間の行為やカルマと関係があるかのように言われてきました。神が、天変地異を引き起こして罪にけがれた人間を滅ぼすとか、地上人の悪行をらしめるために罰を与えるといったことが、信じられてきました。また狂信的な現代の新興宗教では、自分達に敵対行為を働いたために社会や国家に対して天罰がくだったなどと、勝手にこじつけて考えることもあります。天が味方をしてくれたお蔭で戦いに勝ったなどという言い方も、これと同じような考えに立っています。

結論を言えば、天変地異や自然災害を人間の行為・カルマと結び付けて考えることは、迷信・無知以外の何物でもありません。旧約聖書をはじめ地上の大半の宗教にはこうした傾向が色濃く残っていますが、それらはみな、人間がいまだ「霊的真理」に無知であった時代につくられたフィクションに過ぎません。天変地異とは、地球という物質次元での活動に過ぎないのです。すべてが自然法則に基づいて引き起こされる物質的な運動や変化なのです。そして、それは人間の行為・思念とは一切無関係に生じていることなのです。

こうしたスピリチュアリズムにおける天変地異についての考え方は、不思議に思われるかも知れませんが、“唯物論者”と同じなのです。いつまでも迷信と無知から脱け出せない宗教者より、神や霊界の存在を否定する唯物論者の考えの方が、スピリチュアリズムに近いのです。阪神大震災があの地域に起こったことは、そこの住人の行為やカルマとは何の関係もないことです。まずこの点をしっかりと押さえておかなければなりません。

さて、現実に被害に遭った人々、特に親族を震災で亡くされた方々の心痛は、言葉に余るものと推察いたします。離れた所に住む人々も、自分達には難が及ばなかったからといって、それを無関係な出来事として済ますことはできません。被災された方々に同情の気持を失ってはならないのは当然のことであり、できる限りの援助をすべきです。しかしスピリチュアリズムに導かれた私達は、それだけでよしにしてはなりません。自然災害によって人命が失われることは、一般の人々にとっては耐え難い悲惨な出来事です。誰もが何とか免れたいと考えます。そこには、“死”は人間にとっての最大の悲劇・この世の最大の不幸であるとの前提があります。しかしスピリチュアリズムの「霊的真理」によれば、死は悲劇ではなく、それどころか喜ばしい時の到来なのです。

従って、自然災害や天変地異に対しての私達の見方は、世間一般の人達とは根本的に異なっていなければなりません。自然災害によって死ぬことを悲劇と考えてはならないのです。大震災で亡くなった6400名の方々全員が、現在では、死によって地上の悲しみ・苦しみから解放されています。地上時代より多くの悲しみを味わい、苦しんでいるという人は、一人もいないはずです。全員があの世に行って、かつてとは比較にならないほど、楽しく喜びに満ちあふれた生活を送っているのです。災害の被害者について考える時には、すべてこうした「霊的事実・霊的視点」から見ていかなければなりません。

スピリチュアリズムの観点から言えば、本当は災害で死んだ人より、死別を悲しむ地上人の在り方こそ“悲劇”なのです。霊的事実に無知な地上人こそ、可哀想な存在なのです。政府の災害対策の甘さに不満を持つのは当然としても、それより遥かに重要視すべき問題があるということです。今回のような自然災害・天変地異について論じる時、結局は、人間が死後の世界について無知であることが、最も本質的な問題と言えるのです。

さらに大震災で亡くなった方々は、地上に生まれる前から予定されていた、“寿命”が尽きる時がきていたということを知っておく必要があります。もしその方々が大震災で死ななかったとしても、数年のうちに他の原因で亡くなることになったでしょう。しかし、ここで勘違いをしてはならないのは、震災のあった1月17日という当日が、彼らの全員が死ぬべき時として初めから予定されていたのではないということです。地上人は死を重大事と考えるために、多くの人々が同時に死ぬことを、必要以上に特別なこと・特殊なケースと考えがちです。しかし霊的な時間の観点に立てば、地上の時間の少々のズレ(数日~数カ月の違い)などは、無きに等しいものなのです。なぜなら霊的世界には、地上のような時間は存在しないからです。

「カルマの法則」は人間の霊的成長に関する法則であり、「霊的な時間・霊的な流れ」を基準にして考えなければならない問題です。従って、地上の時間で計る3日と3カ月は、霊界においては、全く同じ(違いがない)ことになるのです。死ぬべき時(寿命)は決まっているけれども、それを地上の時間の概念に当てはめた場合には、おおよその時が決まっているに過ぎないということなのです。そうした一人一人の寿命を土台にして、そこに地上のいろいろな要因によって決定される因果律的関係が加わり、それぞれの人生にさまざまなバリエーションがつくり出されます。その結果、ある人々は大震災の当日、被災地で他界することになったということなのです。つまり震災の被害者は、寿命の尽きる時、死ぬべき時がきて亡くなったということなのです。飛行機事故やタイタニックのような海難事故で同時に他界する人々についても、同様のことが言えます。

「霊的事実」に照らした時、本当は、大震災であの世に行った人々の冥福を祈る必要はありません。彼らは地上人が追悼集会などしなくとも、すでに霊界で楽しく過ごしているのです。真理を知ってみれば、気の毒に思う必要も、可哀想だと同情する必要もないのです。地上人が悲しみの涙を流すのは、実は後に残された自分を、自分自身で哀れんでいるに過ぎません。

また大震災の悲しみと悲劇を忘れないようにとの確認がなされたようですが、それも全く意味のないことです。物質世界での出来事は、時とともに風化し、忘れ去られていくのが自然の姿なのです。それでよいのです。本当の愛によって結ばれた人とは、霊界に行けば確実に再会できるようになっています。人間にとって最も大切な愛情は、霊界があればこそ、永続するようになっているのです。真実の愛の絆のあるところには、別離などないのです。

こうした「霊的事実」を知らないために、多くの人々は“死”を永遠の別れだと思い込み、悲しみを風化させてはならないと、自然に逆らったことを言っています。地上で行う追悼集会は、霊界の人々にとっては何の意味もない、おかしな行事に過ぎません。もし地上人が、あの世で生き生きと暮らしている人達の実態を見たならば、誰も追悼集会を催す必要性など感じなくなるはずです。常に「霊的視点」から物事を眺めるようにしたいものです。

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